「心身の鍛錬」も武士道の根源です。
花見 正樹
勇気だけで武士道を全うできると考えると、誤った義理のために命を落とす場合があり得ます。
義理は、しばしば偽善と知りながらも従来のしがらみから抜け出せずに、本意ではない行動をとらざるを得なくします。
「武士道」を正しく理解すれば、いざという時に鋭敏な感性が果敢な勇気を呼び覚まし、理性と忍耐力で窮地を脱して義理掛けによる犬死の愚を免れることも出来ます。
孔子の論語の中に、「義をみてせざるは勇なきなり」という一言があります。
勇気は、義によって発動される。これでなければ、武士道による徳行の価値はありません。
孔子は論語の中で、命題をあきらかにする方法で勇気の意義を示しています。
この格言を肯定的に受け止めると、「勇気とは正しいことをすることである」となり、正しくないことにまで命を投げ出すのは「勇気」の本意ではないことになるのです。
武士道では、「大義の勇」と「匹夫の勇」を区別しています。
勇猛果敢、忍耐強さ、豪胆などを含む「勇気」こそがいざという時に真の正義を守るものとなるのです。
武士道に関する武士の家庭教育は、母からも容易におしえられています。
幼な子が転んだり争いごとで怪我の痛さに耐えかねて泣いた時、母は「これくらいで泣くなんて何という臆病者ですか! 戦さ場で腕を切られたり、切腹を命じられたらどうするのです? いちいち泣くのですか?」と子を叱ります。
歌舞伎の[先代萩]の中で、まだいたいけな幼君・千松が、小鳥が餌を突くのを見てひもじさに「われも早う飯が食べたいわい」と口にすると、実母の政岡が我が子の餓えに悲しんで心の中では泣きながら強く叱る場面があります。
「小鳥を羨むなど何とはしたない。小さうても侍ぢや」
こうして、幼少期から忍耐の精神と勇敢さは教育されてゆきます。
時には、親の所業は残酷ともみえますが、このような苛烈な手段も子供達の胆力の錬磨には必要だったのです。
食物を与えられなかったり、朝食前に冬の寒い中を薄着に素足で寺小屋に通い、素読の稽古をしたり、しばしば、少人数で集まって、処刑場、墓場などをめぐることもありました。
さらに、斬首が公衆の前で行われる時は、幼い少年にもその光景を見せ、真夜中、そのさらし首に自分の印をつけた布を巻いて来るという度胸試しも行われています。
ともあれ「胆を練る」ことが武士には必要なことで、その反面、人に対する優しさも育てないと真の武士にはなれません。
これらは現代では無用なのでしょうか?
新渡戸稲造が触れていない現代でも、この胆力鍛錬は、いざという時に役立つのは間違いありません。
形は変わりますが、私は若い時から渓流釣りで夜中から山奥での独り歩きには慣れていて、物音に対する警戒心や恐怖心が他人とは少々違うような気もします。それがいいのか悪いのか、これから結論がでるような気がします。